金子式天文台特集

宇宙少年を育てた漢【前編】

豊橋から全国へ!
日本の天文ブームに火をつけた孤高のアマチュア天文家、
金子功氏の生涯

豊橋の市街地の東、向山の大池のほとりに、多くの天文ファンを育てた「豊橋向山天文台」がありました。

設立した金子功氏は独学によって「金子式プラネタリウム」を開発・製造した天文普及家として知られていますが、しがらみを嫌い、生涯アマチュアの立場を貫いていました。

氏の自由を貴ぶ姿勢と高潔な理想は多くの賛同を得る一方で、やがてあらぬ誤解を生じ、思わぬ試練に翻弄されてしまいます。

戦後の天文界に偉大な足跡を残した金子功さんの波乱万丈の生涯を前編・後編に分けてご紹介します。

豊橋向山天文台があったと思われる場所。今は閑静な住宅街となっています。

【前編】天文の素晴らしさを伝えるために

◆日本の天文ブームと金子式プラネタリウム

夜空を見上げ、きらめく星を観察する天文ファン。

日本において天文は、長らく占いや陰陽道に用いられるなど、政治的ツールという側面を持っていましたが、明治時代に入り、欧米の天文学が輸入されると近代化が図られ、学問として確立。

その後、学問的な観点を持つ天体観測とは別に、純粋に星や夜空を見て楽しむことを目的とした天体鑑賞が行われるようになるなど、一般化していきました。

その後、関東大震災や戦争による停滞期を挟み、各地で星空観賞や天体観望などが開催され、天体望遠鏡を自作するコアなファンが登場するなど、天文ブームが巻き起こりました。

そうした中、ドーム状の天井に天体の運行の様子を映し出すプラネタリウムも各地に設置。

気軽にできる天体鑑賞として人気を博しました。

現在、国内には約400館あり、世界全体の約15%にあたります。

これは欧州全土の約500館に比肩する水準であり、それだけ日本には天文ファンが多いことを証明しています。

そんな日本のプラネタリウム史を語る上で欠かせないのが「金子式プラネタリウム」です。

恒星投影機の表面に恒星の配列通りに小さな孔を開けて星空を映し出すピンホール式で、「宇宙少年」や「宙(そら)ガール」など、今に続く天文ブームの黎明期を支えた革新的な機器と言えます。

この「金子式プラネタリウム」を考案した金子功氏は豊橋市の出身。

生涯を天文教育と地域振興に捧げました。

◆自らを野武士と称するアマチュア天文家

「アメリカとソ連の宇宙開発が盛んに報じられるようになった1950年代後半に天文ブームが起こりました。

最も盛り上がったのは、やはり1969年のアポロ11号による月着陸でしょうね」

そう語るのは愛知県東栄町にある『スターフォーレスト御園』の開業以来、長らく天文部門の責任者を務めていた清水哲也さん。

清水さんは東京都の出身で、テレビで見たアポロの月面着陸に刺激を受け、地元の仲間を集めて天文同好会を結成。

ちなみにその同好会は、新たなメンバーを加えながら現在も活動を続け、2021年には設立50周年を迎えたそうです。

東京出身の清水さんが、なぜ出身地から遠くなれた奥三河に来たのか。

その理由を訊ねると「やはり金子功さんの存在でしょうね」と回答。

そこで実際に金子さんと交流していた清水さんの証言と遺された著作をもとに、孤高のアマチュア天文家と呼ばれた金子功さんの前半生をたどります。

金子功さんは1918年(大正7年)、豊橋市二川町に生まれました。

金子さんを知る人は一様に穏やかで優しい人と評しています。

しかし、後年『野武士のつぶやき』という冊子を著わしているように、自らを野武士に例えるなど、自分の信念に背くことや曲がったことを決して許さない頑固な一面もあったことが伺えます。

また、『戦い敗れて夜が明けて ~敗戦前後300日の記録~』という冊子も出版していることから、金子さんの生涯に戦争体験が大きな影響を与えていたことが分かります。

太平洋戦争当時、金子さんは名古屋の第11野戦輸送司令部の副官として、作戦遂行に必要な弾薬や物資の補給輸送の責任者を務めていました。

戦時中の任務内容については割愛しますが、生来、自由な気風を求めていた金子さんは軍隊の閉鎖性を嫌っていました。

そのため終戦による解放を心から喜んでいました。

また、戦時下では夜間の敵の空襲などに備え、目標となりやすい電灯などを消すよう規制する「灯火管制」が敷かれていましたが、終戦をもって解除されました。

この時のことを金子さんは、自身の著作の中で、8月15日の夜、廃墟と化した名古屋の街に灯火が蘇り、敵機の空襲の心配がなくなり、人々の自由を奪う「灯火管制」という嫌な言葉がなくなったことを実感し、明るい表情で散歩している市民の姿が目に焼き付いたということを記しています。

その反面、つい終戦の前日まで「鬼畜米英」と声高に叫び、子どもたちに教えていながら、日付が変わるや否や「自分こそが民主主義の先導者だ」と臆面もなく宣言する人たちを見て、金子さんは「こんな恥ずかしいことは自分にはできない」と憤ったと振り返っています。

金子さんが嫌っていたのは権威主義であり、これでは軍国主義が民主主義に取って代わられただけではないかと。

そのため、あらゆる権威主義の枠の外から、あくまで一人の野武士として社会を変革したいと決意したのではないかと清水さんは言います。

◆豊橋向山天文台

長かった戦争が終結し、「これからは地方で文化が花開く時代だ」と考え、映画の巡回や文化講演会を開催していた金子さん。

やがて以前から興味を持っていた天文教育を通じて社会貢献できないかと考えるようになりました。そんな熱意が伝わったのか、金子さんの周囲には次第に多くの天文好きが集まり出しました。

そこで自分の考えが間違っていなかったことを悟った金子さんは、活動資金と自らの生活の糧を得るため、軍隊時代に培った機械工作技術を活かし、天文教具の製作・販売を開始。

たちまち多くの学校や教育施設に納入され、僅かながら蓄えもできるようになりました。

金子さんが製作した天文教材

するとやがてもっと本格的な施設をつくり、社会教育の拠点にしたいという思いが芽生えました。

そのためにはプラネタリウムが不可欠だと考えた金子さんは、独自にプラネタリウムの研究をスタートしました。

そして豊橋市の向山に200坪ほどの土地を入手。

15cm反射望遠鏡を備えたスライディングルーフ式の天文台と集会室を備えた、小規模ながらも理想的な建物を建設。

ここに『豊橋向山天文台』の看板を掲げました。

終戦から僅か7年後、1952年(昭和27年)のことでした。

金子さんが製作した天文教材

◆金子式プラネタリウム

豊橋向山天文台の運営を機にプラネタリウム研究にも一層拍車がかかり、画期的なピンホール式プラネタリウム投影機の試作に成功。

「金子式プラネタリウム」と名付けられ、天文台開設の翌1953年(昭和28年)に名古屋市東山天文台で初公開されました。

それまで日本のプラネタリウム黎明期においては「江上式プラネタリウム」をはじめ、日本オリジナルの投影機が考案されていますが、「金子式プラネタリウム」は教育用として完全な機能を有していました。

具体的には、次の5つの特徴を備えていました。

肉眼で見ることのできるすべての天体の投影が可能

月・太陽・惑星の年周運動の自動化

赤道・横道・子午線・方位角・天頂角などの座標系投影が充実

薄明操作の自動化など、初心者でも操作可能な自動上映機能

流星投影機・オーロラ投影機・日月食投影機・星座絵投影機などを有し、多様な演出が可能

金子式プラネタリウムはその後も改良を重ね、1958年(昭和33年)には和歌山天文館で本格設営されたほか、全国の学校や教育施設に納入されるなど、プラネタリウムを身近にし、ひいては天文科学の普及に貢献したと評価されています。

一人の野武士として天文教育・天文普及に取り組み、独自のプラネタリウムを完成させるという確かな成果を得た金子さん。

資金的な余裕もでき、天文を通した地域振興という理想を掲げ精力的な活動を続けますが、思わぬ壁に行く手を阻まれてしまうこととなります。

(つづく)

金子式プラネタリウムの実物。名古屋市科学館に展示されています。

この記事をShareする

関連記事

TOPへ