人参湯特集

銭湯の灯は消えない

廃業から約半年後
復活を果たした人蔘湯
その歩みを通して
当世・銭湯事情を考える

2020年9月に廃業したものの、「ゆとなみ社」(本社:京都)が経営を引き継ぎ、2021年4月にリニューアルオープンした人蔘湯。

長年にわたり、多くの顧客に愛されてきた同施設が、なぜ廃業に至り、どのようにして再出発を果たしたのか。人蔘湯の女将さんとして長年経営に携わってきた藤井寿美子さんと、新生・人蔘湯の二代目店長の奥村明加さんにインタビュー。

同施設のこれまでの足跡を振り返りながら、地域における銭湯の役割や文化、新たな可能性を探ります。

プロローグ~人蔘湯の誕生

およそ半世紀にわたって人蔘湯を支え続けてきた藤井寿美子さんは、1947年(昭和22年)1月2日、名古屋市に生まれました。小学4年生の時に父親の転勤に伴って豊橋市に移り、1971年(昭和46年)、勤務していた会計事務所の同僚で、人蔘湯を経営していた藤井家の長男だった允人(まさと)さんと結婚。それと同時に家業である人蔘湯を手伝うこととなりました。

自宅は銭湯の隣で、「新婚旅行から帰ってきた翌朝には、お風呂掃除をしていた」と言います。勤め人の家に生まれ、事務員をしていた寿美子さんにとって商売は初めての経験。当時について「最初は嫌で、嫌で。お風呂の仕事がね」と笑います。

そんな人蔘湯に始まりは1950年(昭和25年)頃のこと。寿美子さんの義父が始めたのですが、そのルーツを辿ると大和湯に辿り着きます。大和湯は寿美子さんから見て義理の祖父母が駅の裏手で経営していた銭湯です。藤井家の跡取りだった義父(允人の実父)は終戦後、南方戦線から復員、マラリアに罹患していたため、しばらく静養していました。

様態が落ち着いてきたところで何か仕事をしなければならないとなりましたが、その時、既に大和湯は閉めてしまっていたため、お米の精米を開始。ところが軌道に乗ることができず程なく廃業。次にアイスキャンディー屋を始めたところ、これが大ヒット。

しかし、アイスキャンディーは季節商品であり、商売になるのは夏だけ。そうなると一年を通して収入が得られる商売いいとなり、かつて家業として営んでいた銭湯をやろうと一念発起。現在地(神明町)の「お寺さんの地所を借りて」開業しました。当時、朝鮮人参が手に入りやすく、朝鮮人参を混ぜた薬湯を提供したことで、屋号を『人蔘湯』としたそうです。

その後、朝鮮人参の仕入れ値が高騰したことで、橋本七度煎という風邪薬を使った入浴剤に変更。「体が温まる」「風邪をひきにくくなった」など、評判は上々でしたが、仕入れていた会社が倒産。そのため様々な入浴剤を使用、薬湯は現在も人蔘湯の名物として受け継がれています。

ちなみに人蔘湯を始めた義父は無類の新しいモノ好きで、「テレビをいち早く入れたし、サウナもこの辺りでは一番早く導入した」そうで、「私が嫁いですぐの時、ラドン温泉がブームになって。かなり高額だったけど始めて。ともかく新しいものをどんどん試す人でした」と寿美子さんは振り返ります。

開業当時のままの壁画。富士山のペンキ絵ではなく、山と湖のタイルアートに創業者のこだわりを感じます。

◆家業を継承、女将さんに

寿美子さんが嫁入りした当時、お湯出しや温度管理といった裏方作業を義父が一手に引き受け、店の掃除や番台などの仕事を義母と寿美子さんの2人で分担していました。その後、1989年(平成元年)に義父が亡くなったことで義母が切り盛りしていましたが、1998年(平成10年)に寿美子さんの夫である允人さんが急逝。

允人さんは銭湯の経営に直接関わってはいませんでしたが、義母のショックは大きく、徐々に気力も失せ、人蔘湯は廃業の危機に陥ります。しかし、「苦労は絶えなかったけれど、せっかくここまで頑張ってきたのだから」と寿美子さんが正式に経営を引き継ぐことに。新たにパートさんを雇い、人蔘湯の女将さん生活がスタートしました。

銭湯の基本的な仕事は、朝、お湯を沸かし、その間に浴場と脱衣所を掃除し、お湯が沸いたら浴槽にお湯を張り、サウナなどのスイッチを入れる。午後2時にお店を開けたら番台に乗って、代金をいただいたり、店内を見守ったり。店を閉めたら火の始末と戸締りをして帰る、というルーティーン。なお、閉店時間は、以前は午前2時でしたが、その後は午前1時、今は12時となっています。

ちなみに人蔘湯は住宅街の真ん中にあり、あまり煙を出せなかったことから、開業当初よりボイラーでお湯を沸かしていました。そのため薪で沸かす銭湯より短い時間でお湯が沸き、早朝から仕事をするということはなかったとのことですが、それでも冬場には朝8時位には火をつけていたのだとか。午前2時まで開いていた当時は「本当に寝に帰るだけ」だったと言います。

結婚と同時に銭湯の仕事を始め、最初は嫌々だったものの、毎日お客さんと接することで、新たな自分を発見したと語る寿美子さん。「お客さんと話をしていると楽しくて。それで頑張ってこられた」と言います。

また、「私はすごく負けず嫌いなので、『できません』とは絶対に言いたくなかった」ため、「設備が壊れたらドライバーを持って行って直したり、タイルが剥がれたところを修繕したり」と、できる限り自力で対応。「そうやって自分で手を賭けた店だから愛着もあるし、お客様のことを何より大切に思っていた。そうするうちにお湯屋の仕事が自分の天職だと思えるようになった」と笑顔で教えてくれました。

ほぼ中央に写っているのが店名の由来となった薬湯

◆廃業、苦渋の決断

女将さんとして経営に携わっておよそ20年が過ぎた2020年(令和2年)8月1日、銭湯の心臓部とも言えるボイラーから大量に水が漏れ出て、休業を余儀なくされてしまいます。すぐさま修理業者に連絡し、見てもらったところ、「お母さん、これダメだよ。何ともならないよ」と。5~6軒呼んだものの、どこも答えは同じでした。

修理代を見積もってもらったところ4~500万円。ボイラーだけだったら、どうにか工面できる金額でしたが、シャワータンクなど、大半の設備が老朽化していて、仮に500万円かけてボイラーを直したところで、次に何かの設備が壊れたら、どれだけ修理費が膨らむか分かりません。

その時、寿美子さんは74歳。もうそれだけのリスクを背負うことはできませんでした。しばらく休業の看板を出していたものの、これ以上は無理と判断し、そのまま廃業することに。当時を振り返って寿美子さんは「何が悲しいって、お客様に今までのお礼とお世話になった感謝の気持ちを伝えられないまま閉めることになってしまったこと。やめるなら、きちっとした形で、『〇月〇日に閉めます。今までありがとうございました』って、ちゃんとお礼を言いたかった。でもそれができなかった」と唇をかみます。

廃業という苦渋の決断の後、経営者である寿美子さんには、さらに辛い現実が待ち受けていました。それは建物の解体です。人蔘湯が建っている土地は借地であり、廃業したら更地にして返さなければならない決まりになっていたため、どこの業者に頼めばいいのか頭を悩ませていました。その後についても先に廃業していた銭湯の元経営者に話を聞きに行くなど、気の休まらない日々。

後になって「あの時、母さん、おかしかったよ」と子どもたちが言うほどだったそうで、愛着ある店を自分の手で壊さなければならない無念や後悔、喪失感など様々な感情が伝わってきました。

◆人蔘湯を救った神様とキューピット

2020年9月30日に店を閉めてから1週間程経ったある日、寿美子さん宛に電話が入りました。相手は『旅先銭湯』という本の著者で以前、人蔘湯を取材したことのある松本康治さん。何も事情を知らなかったようで「お元気ですか?」と。そこで「実は店、閉めちゃって。お釜が壊れちゃったから」と状況を話すと、松本さんは「そうですか。残念です」とだけ言って電話を切ったのですが、その後、事態は急速に進展します。

しばらくして松本さんから再び連絡が入り、「お風呂を見せて欲しいと言っている人が居るけど、見せてもらっていいですか?」と。約束の日、松本さんが男女2人を伴って来訪。男性は公衆浴場の継業とコンサルタントを手掛ける株式会社ゆとなみ社(本社:京都)代表の湊三次郎さん。静岡県浜松市の出身で以前から人蔘湯のことを知っていたそうです。女性の大武千明さんは豊橋市出身で祖父が水上ビルで時計店を営んでいたいわゆる街の子で、人蔘湯を利用したこともあったのだとか。

そうして「3人で店の中を見て、いろいろな話もして。それで『ここだったら、引き継がせてもらえませんか』と」という話になったものの、寿美子さんにとっては、まったく知らない人たち。「松本さんの紹介だから、悪い人ではないだろうけど、ちょっと不安」だったため、子どもたちに相談したところ、銭湯に愛着のあった長男が湊さんのことを知っていて、「あの人だったら大丈夫だと思うよ」と言われたことで、決心がつき、経営権を譲渡。人蔘湯はゆとなみ社に引き継がれることとなりました。

再出発にあたって、まず手を付けたのがボイラーの交換です。費用はクラウドファンディングを活用。中には現金を持参する方もいて、即座に目標金額の400万円に到達。銭湯内部に関しても薬湯や壁面のタイルアートなどの人蔘湯らしさは残しつつ、旧来の番台スタイルからフロントスタイルに改めるなどの改修を実施。閉店から半年経った2021年4月にリニューアルオープンしました。

初代店長には大武さんが就任。当時はコロナ禍の只中、不特定多数の人と接することが憚られる雰囲気の中での船出でしたが、再開を心待ちにしていた常連客はもちろん、昭和レトロ好きの若者、ゆとなみ社ファンといった新たな層が訪れるように。加えて、フロントに透明のボウルを2つ置き、その中にアヒルの人形を入浴しているお客さんの人数分入れ、一目で混雑具合が分かるようにして、それをSNSでリアルタイムに発信。するとたちまちSNS上で話題となり、認知度が高まり、集客にも反映。上々の滑り出しとなりました。

現在の盛況に「経営を引き継いでくれた湊さんは神様で、引き合わせてくれた松本さんはキューピット」と寿美子さん。「この2人が居なかったら、今頃、ここは更地だったから」と、感謝の気持ちを吐露してくれました。

入れ替えられたボイラー
混雑状況を伝えてくれるアヒルちゃん

◆新しい時代に合った新しい銭湯

人蔘湯をゆとなみ社に譲った後、寿美子さんはどうしたのでしょうか。

実は今はパートとして、朝のお湯張りと脱衣所の掃除、夜はフロントに座っています。楽隠居という過ごし方もあったでしょうが、寿美子さんは「私自身、まだ働きたかったから、そのまま働きたくて。それを引き継ぎの条件にしたら、快く受け入れてくれた」と喜びを口にします。経営側としたら、人蔘湯のことを知り尽くしている寿美子さんからの申し出は願ったり叶ったりというところだったでしょう。

「再びお客さんと触れ合えることになって、それが一番嬉しかった。手前味噌かもしれないけど、皆も喜んでくれて本当に嬉しい。ただ、周りの若いスタッフとかは、いいかげんに辞めてくれないかって思っているかも(笑)。湊さんにも『辞めてほしかったら、いつでも言ってね』って言っているの」と笑顔で話す寿美子さん。どうやら引退はまだまだ先のようです。

好きで入った世界ではなかったが、やがて天職だと思うようになり、今では生きがいだと言う寿美子さんの目に、湊社長をはじめ、初代店長の大武さんや現店長の奥村明加さんなど、若手の姿はどのように映っているのでしょうか。

「銭湯って、昔はお湯を沸かして、お掃除して、番台をやって。それだけの仕事だった。だけど今の若い人たちを見ていると、銭湯もこんな風に変わっていくんだなって。いろんなイベントをやったりして、若いお客さんも増えた」と感心します。

そして、銭湯は「本当になくなっていく仕事だった。殆どやめていっちゃって、子供に後を継がせる仕事じゃないねって、誰もが言っていた。私が嫁に来た時、(豊橋市内で)20件位あった銭湯が、今ではうちを入れて2軒になってしまった」と言い、「本当に若い人たちが、若い感覚を取り入れて引き継いでくれたということには感謝しかない」と心境を語ってくれました。

今風のカウンタースタイルの番台
オリジナルグッズも並ぶ、ちょっとレトロな物販コーナー

エピローグ~文字通りの“裸の付き合い”を楽しむ場所に

近世江戸時代、内風呂を持てない庶民に利用され、正真正銘の“裸の付き合い”ができる憩いの場として親しまれていた銭湯。終戦後、都市部を中心に全国の至る所で建築され、1965年(昭和40年)頃には、全国に2万2000軒を数えるまでに成長した後、マイホームブームなどもあって内風呂が増えるに従い、銭湯の数は次第に減少し、やがて絶滅の危機に。

しかし、近年になって銭湯に以前と異なる新たなニーズが芽生えているようです。

奥村店長もそれを感じ取った一人。豊橋市の出身で元々歯科衛生士として働いていましたが、紆余曲折を経て人蔘湯のバイトとして働き始めました。当初は数カ月で歯科衛生士にカムバックするつもりでしたが、働いているうちに「お風呂っていいな」となり、新しいコミュニティとしての銭湯が、「自分が携わることで残していく力になるのなら、頑張るのもアリだなと」気持ちが変わり、ゆとなみ社の社員に。

本人曰く「ぬるり、ぬるりと(笑)店長に」就任。若き女将さんとして浴室ライブを開催したり、オリジナルグッズを開発・販売したりするなど、精力的に活動。人蔘湯の魅力を発信しています。そして「内湯が当たり前という人たちに銭湯を知ってもらいたい。古くからの常連さんだけじゃなく、多くの人に銭湯っていい所だなとか、こういうコミュニティがあるということを知らせたい。日本特有の文化でもあるので、銭湯のファンになるきっかけになれればなと思っています」と意気込みます。

最後に寿美子さんにとって銭湯とはどんな存在なのか訊きました。「答えになっているかどうか分からないけど」と前置きしてから、「今はネットとか、SNSとか、面と向かったコミュニケーションが少なくなっている。人間関係も薄れてしまっている中、銭湯は目と目を合わせて話ができる場所。愚痴を聞いたり、世間話をしたり。

お風呂に入るだけでなく、思ったことを喋って気分転換できる、そんな場所でありたい」と寿美子さん。「昔、悪さばかりして叱り飛ばしていた子が、何年か経って『お母さん、これ俺の子ども』と言って店に来てくれたことがあって。そういうのも嬉しいし、だからこの場所にあることが大切」と締めてくれました。

お風呂に入る時は例外なく皆、裸。肩書も立場もなく、見栄も張ることも、自分を飾る必要もなく、本音で付き合える銭湯。デジタル化が進み、人と人とのコミュニケーションが希薄になりつつある現代だからこそ、必要な場所なのかもしれません。

たまには広いお風呂でゆったりとしてみては?
たまには広いお風呂でゆったりとしてみては?
施設名東人蔘湯        
住所〒440-0882
豊橋市神明町47
電話070-9004-1126
メールninjinyu2021@gmail.com
営業時間14:00~24:00
定休日水曜日
入浴料大人       500円
中人(小学生)  180円
小人(小学生未満)100円
サウナ料金    200円

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